
「倒壊した街・スピタク」
一瞬のうちに多くの人命を奪ったあのスピタク地震から10余年が
経過しているにも関わらず、この地域の復興はと言うと、、、
実際、この地域に住んでいる人達も諦め切っている様子でした。
独立直後からの恐ろしいほどの国の困難や情勢を考慮すると
分からないでもないのですが、、、
10年以上も地震直後のままに放っておかれている家が殆どで、
道路をはじめ、社会的なインフラも絶望的に破壊されていて
正直言って初めて訪れた時は「どうやったらココに住んでいられるのだろう?」
と、ただただ不思議に思いました。そして、メチャ憂鬱な気分になりました。
「どうやって住んでいるのか?」と聞いたところ、ある人は
「あの地震直後からあの車の中でずっと暮らしてる」
と答えた人も居た程です。信じられない話かもしれないケド、本当の話です。
今では錆付いてボロボロになったロシア製「ラーダ」を
指差しながら、ポツリと、、、無論、壊れていて走りません。
えぇ?厳寒期も車の中で寝泊りすんですか?食事も???
水は?仕事は?電気は?他のエネルギーは?電話は?トイレは?
というよりも、ひっくるめて一体どうやって生活すんですか?
政府や海外の援助団体やら、在外のアルメニア人からの援助は
無いんですか?
失礼なのは百も承知で、矢継ぎ早にその時は質問してしまいました。
「あの地震で家族が全員死んでしまってねぇ、、、
そりゃ、冬は猛烈に寒いよ。どうして、他の地域に
移り住まずにココに留まっているのかは、自分でも良く分からない。
多分、死んだ家族がココに眠っているからだろうねぇ。
水?汲みに行ってるよ。チョット離れた所にある。
つっても、ソコしか飲める水が出てるトコがないんだ。
でも、まぁセヴァンやジェルムク辺りに住んでる連中でも
俺等と大して変わらない生活をしている奴等は沢山居るよ。
アルメニアは何処もかしこも蛇口をひねっても水が出てこないからね。
ハハハハハ!日本もこんな感じかい?エッ?違う?そりゃそうだッ!
食事も自給自足だよ。まぁ、別にソレはスピタクに限った事じゃない。
アルメニアの他の地域(所謂、田舎の方)でも似たようなもんだね。
仕事は、、、無いよ。別にソレもココに限った事じゃない。
何処も一緒さ。連邦が崩壊してからどこもかしこも工場やら何やらは
全部閉鎖されてしまったからね。ただ、特にスピタクの状況はヒドイね。
多分、100%に近いんじゃないかなぁ?
働いてるっぽい奴は居るがね。
(実際、今現在アルメニア全土の工場の95%は閉鎖されている)
まぁ、家を建て直したヤツの所ならトイレもある。
俺達はソコに共同で作ったトイレを利用してる。
(非常にソヴィエト的な汚い簡易(?)トイレでした。)
政府?あぁ、ハナっからアテになんかしていないよ。
震災直後は色んな国から色んな救援部隊やら援助団体が
来たケドね。すぐに引き上げていった。
政府が俺らに金を回せないのも例の「カラバフ戦争」のせいさ。
仕方ないね。地震で死ぬ奴も居れば、戦争で死ぬ奴も居る。
外国に居るアルメニア人もカラバフの事ばかりだしな。
カラバフの連中よりも今となっては俺たちの方がよっぽど
悲惨な状況に置かれていると思うんだけどねぇ、、、?
え?これからカラバフに行くの?
よーく、見てきてくれ!ステパナケルトはどうなっているか!
ラチン回廊とこの道路を比較してみてくれ。
全く、グラースノスチ以降はロクな事が無い!」
その時に記した日記を見ると、大体こんな事が書いてある。
インタビューさせて貰ったこのオジサンはその辺を歩いていた
普通の人です。気さくにブッ壊れた家を見せてくれました。
何やら「日本人を初めて見たッ!」らしくて、非常に紳士的に
接してくれて、その上、胡桃やら葡萄やらをお土産として
持たしてくれた親切心には正直言って言葉も無かったです。
今ごろ、どうしてるかなぁ?あのオジサン、、、
夏にもう一回行ってみようかなぁ、、、元気でいて欲しいのだが、、、
ロシアやウクライナでも感じた事なのだが、田舎の人は親切だと思う。
日本もそうかもしれない。僕は東京生まれだが、、、スマン、、、
それに比べてイェレヴァンの連中はなっとらんゾォッッッ!!!マジでッ!
この悲惨の限りを尽くした状況を、ココに住むある者は自嘲気味に語り、
ある者は絶望しっぱなし。ある者は「希望が無いワケでな無い!」と語る、、、
それにしても、本当に鬱な状況だ。

ペシャンコに潰れていました。

基本的に石で出来ている家だから被害も余計にヒドかったらしい。

これ見た時は、言葉も出なかった。

確かにここまでヒドイと直しようが無い。

何処の家もこんな感じでした。

2万5千人の人が亡くなったそうです。
恐らく、このHPを見ている人達の殆どはアルメニアの事をよく研究している方が
多いだろうと思います。実際、このホームページを作るきっかけになった某・掲示板の
書き込みを見た時は「実際に住んでいる俺よりも皆よく研究してるし、よく知ってる!」
と驚いてしまいました。アンドレ・アガシがイラン生まれのアルメニア人だったなんて
全然知らなかったです。アルメニア人にしては「薄い顔」してるよなぁ、、、
そんなワケでこの「大震災」に関して説明は不要かとも思ったのですが、
少しだけこの「スピタク地震」について説明をしておきましょう。
その地震は1988年に突如起きました。犠牲者の数は述べ2万5千人。
アルメニアは日本同様の地震多発地帯。
その原因は同地方が南方からのアラビア・プレートの圧迫の影響を
モロに受けているからだと言われています。
神戸で起きた震災と比較しても日本とアルメニアの人口比を考えると
犠牲者の数はとてつもなく多く感じる。
質問に応じてくれたオジサンも「直後は悲惨どころの騒ぎじゃなかった。」
とポツリと言ってました。
基本的にスピタクに限らずアルメニアでは、どの家も大きなレンガを積み上げて
それをコンクリートで適当に隙間を埋めて作りあげているので、
日本の木造建築のそれと違って非ッ常ーに耐震性が弱そうに見える、、、
見えるんじゃなくて、絶対にそうです!
写真でも分かるように、天井から壁からデッカイ石がボコボコと
落っこちて来たらどんなに頑丈な人でも死にますよね。間違いなく、、、
そもそも、ソヴィエト時代は「とにかく計画に従って作ればいい!」
という世界だったから、耐震性もへったくれも無かったのかもしれない。
しかし、それが間違いなく2万5千人もの死者を出す原因になったのでしょう。
レニナカン、キロヴァカンで倒壊した家屋の大部分は過去二十年以内に建設された
ものだったらしいです。その殆どが、スラッグ・コンクリート板から流れ作業方式で
組み立てられた4、5階建てのアパートで、子供がトランプで組み立てる家のような
非常に危なっかしい建物だったらしい。
「設計上の耐久性は20年」と当時は伝えられていたそうだが、なにぶん
ソヴィエト政府の言う事ですからね。非ッ常ーに眉唾っぽい。
おそらく「規格通りに建設されていれば」という前置きがあるハズですね。
それ以外にも様々な原因があったらしい。
天災と言うよりも、「人災だったのではないか?」とマジで思ってしまう。
なんでも、いかにもソヴィエトらしく建設用のセメント、砂、鉄骨、
コンクリート等は党幹部や富裕層の別荘や豪邸の建設用にしばしば
盗まれていたらしい。コチャラン現大統領やペトロシャン元大統領の為にでしょうかね?
震災直後に被災地を訪れたゴルバチョフはこうも言っている。
「3年前に建てられた家が倒壊して、フルシチョフ時代に建てられた建物が
残っているのは一体どういう事でしょう?」と。
これは結局フルシチョフ時代よりもずっと多くの建設資材が盗まれているという
事実を認める結果となってしまったようです。
「プラウダ」は地震多発地帯のアルメニアに高層建築物を建設するように
指示した当時の指導者を裁判にかけるべきだと訴えている。
古代、アルメニアの首都だったアニは1046年の大地震で崩壊している。
900年と1000年にもやはり大きな地震が起きている。
まだそう遠くない1926年にもやはりかなりの大地震がレニナカンで
発生していたそうです。
これらの事実を組み合わせれば、とてもじゃないけど
こんな地震多発地帯に敢えて大出力の原子力発電所を
建設しようなどという「トンデモナイ事!」を考えないハズですが、、、
しかし、そこはソヴィエト。「ヤルと言ったらヤルのだッ!計画通りに!」
「プラウダ」がそう訴える根拠はおそらくここにあると思う。
震災直後2機の救援機が墜落したり、救出された人々でさえ凍死、ないしは
死亡した事、救援用の機材や暖かい衣類を積んだ飛行機の一部がアルメニアに
着陸出来なかった事。
そして、危うく第2の「チェルノブイリ」になりそうだった事。
もしかしてもう少し「迅速」に「適切」な救出をしていたら
助かる命も沢山あったのではないでしょうか?
あ、因みに今でも「レニナカン」だとか「キロヴァカン」と言った方が
アルメニア人には通じる事が多いです。
アルメニア全土の通りの名前から、地域の名前まで全部独立以後に改めたもんだから
「スピタク」といっても「ハテ?何処だったっけかなぁ?」と
顔をしかめるアルメニア人は多いです。
レーニンとキーロフという二人の共産主義者に由来した地名ですね。
とっても不吉でイヤな感じですねー。で、その通りになってしまいましたね。

地震のエネルギーの大きさが伺える

震災で亡くなった人達のお墓
また、もう一度行ってみようと思う。
あれから少しでも良くなったのか?それとも更に悪くなってしまったのか?
確かめてみたい。